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polarm[ポーラーエム]
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新しい言語システムとしての『polar』が見せる世界内表象

池上高志

インターネットの黎明期、Googleが本格的に始動を開始する少し前に発表されたカールステン・ニコライとマルコ・ペリハンの『polar』(キヤノンアートラボ/2000年)という作品は、現在のクラウドコンピューティングを具体化したような、今日においてもなお「未来的」ないし「言語学的」と考えられる作品である。サウンドとビジュアルにテキストが複雑に絡み合ったこのインスタレーションは、不確定な知性体との対話というものがテーマとなっている。

いわゆるメディアアート系のインスタレーションにおいては、来訪者と作品との明示的な応答と反応を通して遊ぶという形式のものが多く観られるが、『polar』はそうした具体的な情報のやりとりはない。それにも関わらず、なにか相互作用的である不思議な作品となっていた。

知性というものは、多くの文献や事実をすべて書き留めた知識の束のことではなく、常に書き換えられ、膨らんでいく、“オンゴーイング”なプロセスのことであることをわたしたちは今日よく知っている。ウィキペディアをはじめとしたインターネット上のデータベースは常に編集されることで存在できることや、お互いになんとなく情報を交換したり、対話したりする SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場によって、情報というのは意図せず流れてくるものが貴重であることも感じている。今であれば、web2.0とも呼ばれるそうした Webの新しい考えも常識となりつつあるが、『polar』が世に出た2000年の時点では、ネットに対するそうしたイメージは、想像できなかったと思われる。

この作品では、与えられた「pol」と呼ばれる大きなインターフェイスを手で持ちながら、底面7メートル四方、高さ4メートルの半透明のホワイトキューブの中を動き回る。それに呼応して、内部のソフトウェアが収集したデータベースや、7つのキーワードをもとにリアルタイムでその来訪者との「対話のパターン」が計算され、音や光のパターンが提示される。それはこの作品から発声されたあるきわめて抽象的な言語の形である。文字や映像や音や考えというのはインターネット上では、等しくビットの束である「パケット」の流れであって、パケットが運ぶ内容の区別は付いていない。パケットが運ぶ内容は、人間を介してのみ判定可能な言語で書かれている。そのため、パケット・フローを解読するためにはアプリケーションが必要である。日常われわれは、さまざまなアプリケーションを用い、インターネット上に流れるパターンで遊んでいるわけだが、それはこの作品が実現しようとしたひとつの言語の形でもある。この作品はサーチ・エンジン(ネットの中から必要な情報を探索して収集するプログラム群)の自律的な形のひとつを提案したとも言えるのだが、それは今でも開発しつづける大きな課題である。

この作品から10年、再びカールステンとマルコによって新型の『polar』が作られた。10年前に予期してみせたようなウェブ2.0が、すでに日常となっている現代に彼らが送り出したのは、自然化された(naturalize)『polar』—『polarm』であった。

もともと『polar』を制作したときのモチベーションは、稀代の SF 作家スタニスワフ・レムの小説「ソラリスの陽のもとに」に登場する海の再構成にあったという。この海とは、自然現象としての惑星ソラリスの「海」が示す知性である。今回発表された『polarm』は、ステップごとの手続きで計算可能な世界を構築する、チューリングマシン型の世界のいう「閉じた計算する総体」ではない。自然が偶発的に作り出す放射線を視覚化し、量を感知するセンサーが、そのパターンをサウンドや映像の運動として再生成する、人工システムである。10年を経てインターネットの複雑な知性のパターンが、自然現象に翻訳された、と言うことができる。

カールステンの考えているだろう知性のカタチについて考えてみる。知性とは、けだしノイズのことである。作家のひとり、カールステンとの出会いは、彼が参加していた展覧会「EMPTY GARDEN」(ワタリウム美術館/1999年)であった。そこで発表された作品『inside/out』は、ノイズと自然の対比であり、両者の融合を観測者にみせるものであった(少なくとも僕にはそう感じられた)。わたしたちは、意味のある情報とノイズは決定的に違っていると考えているが、実はその違いは曖昧である。たとえば録音したい楽器の演奏の音に対し、それとは別の音源はノイズとみなされる。いったん情報とみなされなくなったノイズは、単に阻害物であるノイズそのものとなり、そのもともと秘めていた知性は捨てられてしまう。しかし知性とは、情報の生成装置であって、情報そのものではない。本質的にノイジーなものなのだ。なぜならば、知性とは常にそれまでの知識や見解を破壊し、創造的な芽をつくり出すものなのだから。したがって S/N(シグナルとノイズの比)というような見方そのものを覆すことでもある。

『polarm』は、主に3つのモジュールからなっている。1つ目はクラウドチェンバーという、目には見えない放射線や荷電粒子を可視化する装置。宇宙から降り注ぐ放射線は、白い泡の奇跡としてこの装置が持つ大きなガラスのケースの中に可視化される。2つ目はおおきな花崗岩と、その表面を探査するロボットアーム。ロボットアームの先には放射線を検知するセンサーが取り付けられており、花崗岩が含む放射性元素から放出されるα線やβ線を感知する。3つ目は底面7メートル、高さ4メートルの、半透明の大きなホワイトキューブ。これは2つ併設されており、その上部からクラウドチェンバーからの映像が大きく映し出されている。向かって右側のキューブは、中に入ることが可能で、そこに入るとクラウンドチェンバーの内部でたくさんの泡が複雑に放射線の軌跡をつくっているその真っ只中に入ったような印象を持つ。それに付随して、キューブの内部には加工された電子音のようなノイズが終始流れ、またキューブの表面には時々黒いソリッドなフレームの映像が間欠的に横断する。これらは先述のロボットアームの運動をもとに生成されたものだ。一方、左側のキューブには入ることはできない。ただ外側から眺めるだけ。その中で起こっているであろう、その空間内の出来事は目にすることはできない。

この作品を訪れると、抽象的な形式ときわめてノイジーな音と映像、その2つに圧倒される。サウンドやイメージが持つ乱流性と、それを構成するシステムの静的で厳密な感じは、そこを訪れる人にデジタルな動物園の印象を与えるかもしれない。少なくとも僕の頭に浮かんだのは、“beastin the cage”(囚われた獣)という言葉である。ここで囚われているのは、ノイジーな宇宙からやってくる宇宙線のデータ。そして中に入れるキューブと入れないキューブ。この2つが併設されている意味は、カールステンとマルコが、この作品において人々に問うているものである。

この作品の解題のために僕は、オーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンの短編小説『TAP』(1995年)を持ち出したい。この小説に登場する「TAP(Total Affect Protocol /総合情動プロトコル)」とは、人の脳にインプラントする「普遍」言語文法装置で、人間の五感を通して入ってきたものをすべて言語化できるデバイスである。たとえば「いまどこかで雷鳴がとどろき、風がどこからか巻き起こり、遠くのバイクの疾走音を運んでくる」といった印象がたちどころに、ひとつの「言語」として提示される。この装置の容量ははるかに人の脳のキャパシティーを超えているので、言葉にできない印象とか、イメージはなくなってしまう。新生児にこの装置を取り付ければ、言語を持たずして思考が育ってくるかもしれない。逆にそれはこれまでの言語を取り上げ、知性の成長に決定的な問題を引き起こす毒なのかもしれない。この小説はそのような巨大普遍言語化デバイスにまつわる SFだ。この小説が、10年を隔て出現した2つの『polar』をつないでひとつのパターンを浮かび上がらせる。

脳は100億の神経細胞が、信号を(たとえそれがどのような情報であれ)つながった相手に転送するネットワークである。そしてインターネットもまた同じなのだ。ノードとノードの間をパケットが行き交っている。そのパケットを操作するバッファサイズの最大値は、時にきわめてカオス的になる。実際の脳の神経回路網も、つねにカオス的に揺らいでいることもまたよく知られている。そこに共通してあるものは、「不安定性の海」である。一方クラウドチェンバーを通過していく放射線や荷電粒子は、宇宙からきたものであり、花崗岩が崩壊したものである。不安定な原子核が自然崩壊してでてくるα線やβ線やγ線が、ガイガーカウンターにひっかかる。その確率事象と、インターネットが作り出す確率的に見える事象は、まるっきりその原因が異なっている。そこに共通にあるものもやはり「不確定性の海」である。

そして、これらの不確定性と不安定性の上に、一見パラドキシカルに知性は成立している。単純な情動や知覚は安定なものの上に成立しているのではなくて、背後で支えているのは複雑で膨大なデータの流れである。イーガンの「TAP」はそれを一言で言語化してしまうインプラントデバイスだ。膨大とはいえ、枚挙可能という考えである。2つの『polar』もまた、人間をその膨大なデータの流れへと接続するデバイスなのであると考えよう。

白い一対のキューブは、中身に映し出されたデータと、それを複製したキューブ。その中で生じていることとは別に、生じていることを支えているかのようなフレームを提示することで、そのものが別なものへと形式とともに翻訳されていることが示される。明らかにさせるものと、我々をその現象に成立させるもの、作品として成立させるもの。そうしたもの全てが、言語化であり世界内表象のことである。ノイズを表現へと翻訳させるものを、わたしたちは言語と呼ぶのだけれど、もちろんそこにはある世界表象が介在する。不可視なものを可視化しているそのフレームが、その表象を担っている。そのことを提示する必要があった。イーガンの「TAP」とはそういう新しい言語の見方であり、ここでは『polarm』では左側のキューブがそれにあたる。宗教とノイズというのは案外と近い存在である。そうした不可視なものに言及する表現こそが、本当にメディアアートとして求められていくものなのだと思う。

そして、ここで3.11があった。三陸沖で発生した1000年に一度の大きな地震。巨大な津波による三陸海岸一帯の大災害。続いて福島での原発事故。SF 的な感傷と客観性をもっては語れなくなった現実に、この作品評を書いていた僕自身、そして日本全体が直面した。

福島原発から半径30キロ以内の退避。アメリカのスリーマイル島を超える大きな放射能事故が勃発してしまったのだ。チェルノブイリの再来が日本で起きてしまった。つぎつぎと明らかにされる事態の深刻さ。隠される情報。放射能を含んだ風の向き。人々の被爆。食品の安全性はまったく確保されない。原発では水素爆発が繰り返し起こる。メルトダウンの可能性が示唆される。思っていた以上の汚染の深刻さ。これを受けて個人個人がガイガーカウンターで線量を測るしかないという動き。しかし、そもそも放射能とはなにか、それがわかっている人が極端に少ない事実。30年にわたる健康への影響が心配されるというが、それはどう取り除けば良いのか?そもそも国の威信をかけて開発した SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)はなぜ起動しなかったのか。ロボットはなぜこういうときに高放射能下で活躍しないのか。セシウム134ってなんなのだ。ミリシーベルトってなんの単位なのか。絶対安全って言ったろう!

そうした雑多で、しかし不可避的に真剣な言葉がツイッターを駆け巡り、3.11以降何ヶ月も続くこととなった。それに加えて、九州電力の「やらせメール」問題をはじめ、多くの情報操作とも思える政府の動きが国際的に非難されている。『polarm』は、この歴史的な事態の中を生き抜けていかなくてはならない。この新しい『polarm』は、放射線の測定と可視化をコアとした作品なのだから。

期せずして『polarm』は、大きなメッセージを引っ張ることとなった。目にみえない放射線はそこらに降り注いでいる。それはこのように可視化され、サウンドになり、体験できる。なんの変哲もないそのへんの花崗岩ですら放射線を出している。そのことに思いを馳せるとき、これまで背景の放射線のことを何も意識していなかったにもかかわらず、放射線を必要以上に恐れることや、子供を公園で遊ばせないことや、日本の野菜/魚/牛をいっさい口にしないことの愚かしさを、3.11の前につくられ未曾有の大災害に遭遇したこの作品は、静かに語ってくれている。

2つの『polar』は、偶然そのときの世界の流れと相関を見せるとはいえ、基本的には非常に無関係な存在であるはずだ。同時に同じ世界線上にある事象はなにかの相関を持ちつつ動いてはいるだろう。だから、そうした世界で起こるいろいろな事の表象的な存在になっていることもままある。といってもサイエンスとアートというのは、基本は役に立たないもので、本質的にペダゴジックなものである。人の生命を救うのは、何か非常に運が良い場合だけであって、たとえば「車の運転」などからはもっとも縁の遠いものである。しかしサイエンスとアート、どちらも人類だけが特権的に持つ新しい「言語」である。わたしたちは、インプラントされた自然に獲得した「TAP」という脳内デバイスを用いて世界内表象をつくり続ける特異的な種なのである。

僕が2010年に YCAMで制作/発表した『MTM[Mind Time Machine]』という作品もまた、世界の流れとは無関係に成立する。映像を使って環境からの情報を記憶し、蓄積して、次の時間での映像の入力パターンをつくっていく作品である。マッシブなデータは、システムそのものがつくり、それを記憶とし、人工の意識をつくりあげ、主観的な時間の中、回されていく。2つの『polar』もまたシステムによるマッシブなデータの生成と変換の仕方を提示している。

結局この喪失の時代に、時間と空間を埋めていくものはそうした意味のないデータの積層である。科学者が今の宇宙をどう解釈しようと、1000年たったらそうした解釈もまた別なものになっているだろう。しかし、それがサイエンスとアートの宿命でもある。『MTM』も2つの『polar』も、それ自身が新しい言語生成システムとして、グラウンドされた「TAP」として、つくり直されていくものなのだと感じている。