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Desire of Codes|欲望のコード
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三上晴子『Desire of Codes|欲望のコード』について—遍在する情報身体、そして創造的逸脱へ

四方 幸子

そこには空虚にさえ感じられるほど大きな暗がりが広がっている。広い床には何も置かれず、向かい合った二つの巨大な壁面と空間中央の天井に設置された機械や映像のみの、ミニマルな空間構成である。だがこの空間は、空虚なのでは決してない。削ぎ落とされた可視性の背後に視えないネットワークが張り巡らされ、その中で生起するさまざまな出来事が蓄積され関係し続けるものとして設定されている。各所に設置されたセンサーやカメラ、マイクにより収集されデータベース化された情報が、空間内で異なるかたちで可視・可聴化されていく……。ここでは観客の存在が不可欠であり、それによってはじめてこのシステムは「作品」として立ち上がるのだ。

空間全体が寡黙に観客を待ち構えている。観客の一挙一動がセンサーに感知され、取り込まれることにより、リアルタイムで空間が反応する。訪れた者は、観者/体験者、能動/受動的という対立を超え、複数の立場や存在—時には断片化された〈データ身体〉—として作品に巻き込まれることになる。

入ってすぐの壁全面には、LEDを先端にもつ触角のようなセンシング・デバイスが90基、整然とグリッド状に並んでいる。前を通る観客はすぐさま感知され、すべての「触角」が狙うかのように即座にその対象(観客)に向けられる。各デバイスはスタンドアローンでありながら、観客の動きに応じて波のように這うような動きを全体で現出させる。その様子は、微かなモーター音も手伝って不気味でさえある。

15基×6列あるうちの1列の触角デバイスにはカメラが設置されており、撮影された観客の顔や姿がネットワークを通じて空間の反対側、遠方真正面の壁にあるプロジェクション「巡視する複眼スクリーン」に瞬時に現れる(空間が広いため、本人が自身の映像を見ることはできず、他者によって観察される対象となる)。昆虫の複眼のように61個の正六角形の映像で構成されたこのスクリーンでは、観客の姿や顔のアップ映像が、過去の観客や世界各地の監視カメラの映像などとともに、プログラムにより絶えず複数同時並行で動的に組み合わされて、絶えず切り替わる。

巨大な空間の中央部分に天井から吊り下がるのが、「多視点を持った触覚的サーチアーム」と呼ばれる6基のロボットである。カメラとプロジェクターを併せ持つアームは、その付近を歩く観客を狙って反射的に稼働する。観客は、カメラが捕える自分の姿を、移動を追跡して動く足下の複数の映像で見る —入力(撮影)と出力(プロジェクション)がリアルタイムで接続された—というかつてない事態にさらされる。見られながら同時に見る側でもあるという、主体と対象が自らの中で分裂してしまう体験である。

『Desire of Codes|欲望のコード( 以下 Desire ofCodesと表記)』では、現代社会で日常的におこなわれている人々の行動のトラッキング、そしてデータベース化や解析によるフィードバックの問題が、独自のハードウェア、ソフトウェアによる極めて精巧なインタラクティブ・インスタレーション作品へと昇華されている。すでにわたしたちの中で無意識的なレベルへと内面化されつつある監視という問題を、アートとしてかつてない知覚・身体的体験として外在化することで、その奇妙さに向き合っていくことがそこでは意図されている。

ところで副題ともなっている「欲望のコード」とは、何を意味しているのだろうか。三上はこの作品について、現代のネットワーク化された監視社会における「欲望と身体」の問題を扱っていると述べている。ではそもそも「欲望」とは、誰の欲望なのか。一見すると個々人のもつ潜在的欲望 —視ること、そして視られることの—であり、それがネットワーク社会を通して増幅・制御されていくことのように思われる。しかしすでにわたしたちは、ネットワーク化された機械とシームレスに接合されてしまっており、「欲望」とはそのような接合的状態においてのみとらえるのではないだろうか。

メディア論者のヴィレム・フルッサーは、すでに1970年代に「装置+オペレーター複合体」という概念を提出しているが、現代のデジタル・ネットワークは、個々の人々の参加を飛躍的に促進し、アルゴリズムを介したフィードバック・システムによって、瞬時かつ遍在的な「欲望のコード」を増幅的に生み出すことになった。「欲望」はもはや誰のものとも特定できないまま、グローバルなネットワーク中にコードとして遍在し、発動し続けているとさえいえるだろう。

『Desire of Codes』はそのような状況に、観客が身をもって直面する場となっている。自身の動き、顔そして声が知らないうちにセンシング、キャプチャーされデータベースとして蓄積され、ネットワークを通して空間内に時おり映像や音声として(本人が去った後も)現れる。観客の一挙一動に、素早く反応するデバイス群、それらにともなう機械の稼働音、観客の行動が、断片となり思いもよらないタイミングや組み合せで出力されつづける状況……。可視的なものや背後にあるシステムも含め、そこでの体験は、執拗にわたしたちの知覚や神経を撹乱し続ける。データの断片として捕獲された人々は、「ゴースト」のように現れては消えていく。この空間は、情報ネットワーク化された「お化け屋敷」のようなものであり、同時に現代社会のアートを介した縮図といえる。そしてゴーストとして徘徊しているのは、他ならずわたしたちなのである。

『Desire of Codes』で扱われている監視やデータベース、そして欲望喚起の問題は、90年代末から00年代初頭にかけて、とりわけ欧米圏のアーティストに監視社会への抵抗として頻繁に取り上げられてきた。三上の作品がそのような文脈と異なる点として、主に二点が挙げられる。ひとつ目にこの問題が、彼女80年代半ばのデビュー以来一貫して取り組んできた「情報化社会と身体との関係」というテーマの延長的発展と位置づけられることである。初期にはそれが圧倒的な物量のインスタレーション—電子社会の廃墟—として表現され、90年代には「知覚のインターフェイス」というキーワードとともに、生体と知覚認識の関係を省察するインタラクティヴ作品へと展開した。

『モレキュラーインフォマティックス—視線のモルフォロジー』(1996)では眼差し、『存在、皮膜、分断された身体』(1997)では聴覚が、市川創太との共作『gravicells —重力と抵抗』(2004)においては、身体や世界を形成する根源としての重力(物同士が引きつけ合う力)が、可視化の対象として取り上げられている。『gravicells』以降、体験者相互の関係性がとりわけ顕著になりはじめたが、『Desire of Codes』ではそこから現代社会における新たな知覚 ―情報化ネットワーク化された身体性や欲望— の問題へと踏み込んでいる。今回の展示は、これまでの探求から必然的に要請されたものなのである。

ふたつ目に、監視社会のあり方が10年前とは異なる位相へ突入したことが挙げられる。監視システムは、技術の進展と人々の意識の両面において00年代に大きく強化された。とりわけ2001年9月11日の同時多発テロ以降、パブリック・オピニオンを含め全世界がことごとく監視の容認へと舵を切ったことは記憶に新しい。今や公共空間には至る所に監視カメラが設置され、オンライン上の行動がネットワークを通して登録・管理される日常にわたしたちは生きている。と同時に近年、ブログや SNS、Twitterなど新たなコミュニケーション・システムが、公共性を変容させつつあることも特筆すべきだろう。膨大な情報が個人から発信される中で、プライベートとパブリックが曖昧となり、「監視」さえもパーソナルな「見守り」へと転じ、インタラクティブに共有されうる時代……。三上はそのような、新たな「欲望」の様相 —監視者/対象、自己/他者、プライベート/パブリックという既存の対立がコードを介して相互浸透し始めた—を訪れた者に身をもって体験させる。

『Desire of Codes』では観客が、監視される対象であるとともに、突然視る側へと転換され、またそれらの間を往還する。観客は一見、空間やシステムに翻弄されつづける存在に思えるが、実はそのような非対称的な構造を無化し逸脱していく可能性が、この作品には準備されている。

すでに単独のインスタレーションとしての展示実積をもつ「蠢く壁面」には、今回映像の入力機能が加わり、新たに製作された「サーチアーム」や「複眼スクリーン」とネットワークを形成することで、これら3つが連携した情報のフィードバックが実現している。それらが稼働する空間全体は、その広大さによって、肉眼および情報レベルで不可視的な局所を時間・空間的にいたるところで動的に生み出 している。観客にとって、起きている全てを捉えることは不可能である。また反応するデバイスの動きは、センシングゾーンとそうでないゾーンの境界を常に変動させつづけるが、観客は意識・無意識的に、センシング領域を無化してしまう存在としてある。加えて「蠢く壁」や「サーチアーム」のカメラが、(ターゲットだけでなく)ターゲット不在のまま自己言及的に映し合う映像も含むことで、情報の入出力が空間内で入れ子状に関係しあうプロセスが起きていく。

なかでも情報の出力に特化することで、存在感を放つのが「複眼スクリーン」である。リアルタイム、データベースを含め、複数の場所や時間の映像がめまぐるしくスイッチされるそのバリエーションは、脳内の記憶のシステム系に近いものとして構想されている。それは意味と無意味の境界さえももたないまま、未分化な情報のオーバーフローとして作動し出力されつづける。すべての映像を同時にとらえることはできず、観客はたえず部分と全体を行き来しながら映像に向き合う —もしくは刺激にさらされる—しかない。「複眼」は、監視というものの象徴的としての〈眼〉でもあるが、それは誰のものでもなく、オートマティックな情報処理を行なうことで、主体を欠いた状態自体を放出しつづける。

空間全体で際立った効果をあげているのが、観客の動きやデータベースの状態に応じて微妙に変化する音と光である。観客を執拗に追跡するデバイスの音、データベースから空間に時おり放たれる観客の声……。薄暗い中、歪んだ影を壁面に投げかけているサーチアームは、突然の照明により発していた映像プロジェクションをかき消され、それ自体のメカニズムが露にされる。ターゲッティングのためのインターフェイスが見られる対象へ逆転され、可視/不可視の関係における非対称性が鮮やかに覆される瞬間である。

『Desire of Codes』において観客は、見られる対象と見る主体へと時には分断され、時にはそれらが接合している状況を体験する。空間にあるデバイス群とその背後にあるシステムは、規範に従いつつも、その内部に「ヴォイド(空虚)」や矛盾 —コントロール不可能性—を抱えている。観客は、自らがシステムの一部であることを受け入れつつも、システムに遍在するそうしたコントロール不可能性を繊細に感知・観察し、能動的にふるまうことで、その拘束から逸脱していく可能性を与えられている。システム内で翻弄される受動的存在から、空間・情報的に入り組んだフィードバックの盲点をつくことで、システム自体を対象化し異化していく存在へ。システムからの創造的逸脱ともいえるそのような関わりこそが、観客に待望されているはずである。