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Desire of Codes|欲望のコード
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アーティストトーク

2010年3月21日

制作を振り返って

阿部 まず、三上さんからお話を伺っていきたいと思います。今回、新しい作品を制作し、発表されてみて、どういった印象を持たれましたか?

三上 3週間ほど前からYCAMに入り、毎日制作をしてきたのですが、当初は「本当にこの作品は出来上がるのだろうか」と多少不安にも思っていました。会場となるスタジオAの空間が考えていたよりも広大であったということもありますし、メカニカルやソフトウェアなど技術的にもかなり難しいことをやろうとしていたということもあります。
前半の12日間は、膨大な部品の山の中で延々と身体を動かす肉体労働をしていて、それを我々は「野獣の日々」と呼んでいたのですが、そういった作業が続きました。その後、部品が組み上がり、次第に落ち着いてきて、その後はコンピューターに向かってシステムを構築していく作業をずっとやってきました。3日ぐらい前にようやく作品がほぼ完成したのですが、そのときに、それまではものすごくあふれていた工具とか部品などが、スーッと何かにさらわれたように無くなっていって、シンプルな空間になっていったんですね。悪く言えば「何かちょっと物足りない寂しい感じ」で、良い意味で言うと「そぎ落とされたような空間」になりました。 たとえば、今回スタジオBに展示している『gravicells』を2004年に最初に発表したときもそうだったのですが、それ以外でも私が制作の最後に「これで終わりだ」と決めるときは、いろいろな物がスーッとなくなっていく瞬間です。今回に関しては、「終わりだな」と決めたあとも、プログラムを担当してくれた平川(紀道)くんや、サウンドを担当してくれたYCAM InterLabの濵(哲史)くんは作業を続けてくれていましたが、ともかく、私としては、3日前がこの作品が自分の手元から離れた瞬間になります。スタジオAという空間に「Desire of Codes|欲望のコード」という概念が、物が無くなったことと引き替えに、作品として生まれたように感じました。今回は滞在制作でしたから、そういうプロセスがはっきりと自分で確認することが出来たと思います。 その後は、誰がどのような状態で作品の中に入ってきも、同じような状況やクオリティで体験できるようにするために、ランニングテストを重ねていきました。

阿部 メディアアートとは最終形がなく、現在の技術を常に反映しながら発展していく存在ですから、それ自体が常にプロセスだと言えます。『gravicells』も、国内外を巡回する中で、アウトプットの形を変えたり、使用する技術を変えたり、ソフトウェアを変えたりしているわけです。そうしたときにアーティストがどういうところから着想を得て、ひとまずの最終形を迎えるのか、僕自身もキュレーターとして非常に興味深く注視しています。
三上さんに、今回の作品の制作プロセスを振り返っていただいて、どういうところから、あの作品を発想されたのかをちょっとお聞きしたいと思います。

三上 発想は日常の渦の中で繰り返し感じたささいな事柄が、だんだんと大きくなっていくようにして得られます。『gravicells』の場合、たとえばプールやお風呂に入った瞬間に、音の聞こえ方が全く変わりますよね。そういうことを音と光で表現できないかな、というところから始まりました。それがだんだん変化していって、内耳のことを考え、身体が持っているバランスのことを考えるようになり、そこから必然的に重力の問題を考えるようになりました。それから重力に関連する本を読んだりして、かつて重力は呪術のように考えられて時代があったなど、いろいろな知識を断片的に得て、作品に落とし込んでいくわけです。
今回の作品の場合、『蠢く壁面』だけは2006年に小規模なかたちでストックホルムで発表していたのですが、それの本来のプランは虫のように自立して空中を動いているユニット群でした。爪くらいの大きさの作品がカメラとマイクを内蔵して飛んでいて、それが人に近づいてきて、まとわりついて、やがて離れていくといったイメージです。いまのインターネットとか情報化社会の中に居ることで、このような宙に浮いた媒体を制作したくなっていったわけです。
しかしその後、技術的問題に直面し始めて、「これはできる」「これはできない」という取捨選択をすることになり、形を変えながら現実的なところに落とし込んでいった結果、現在の『蠢く壁面』になりました。

阿部 ここで一旦、池上さんにも同じ質問をしたいと思います。制作された作品を実際にご覧になって、どういった印象を持たれましたか?

池上 とにかく、作品を走らせるまでにものすごく時間がかかってしまって、コンピューターシミュレーションだったら一発なんですが、このシステムが実際に稼働したのは2日前の朝の4時くらいでしたからね。とにかく走らなくて、普通のコンピューターでは問題にならないことが全て問題になるような状態でした。たとえば、何十ミリ秒でどこへ書き出すかとか、このシステムが動いているときにあるところからデータが入力されているはずなのにそれがないとか、ありとあらゆる問題が蓄積していました。
結局、コンピューターシミュレーションでやっている脳のシミュレーションというのは、真空中の脳のモデルなんですよね。でも、本当の世界というのは、有限の時間があって、訳の分からない情報がどんどん入ってきて、それを処理しなくてはいけない。それなのに何で脳は簡単に動いているんでしょうかね。この作品をつくった感じだと、とても動きそうにもない。だから、いま、この作品が動いていること自体が不思議です。それが一番の印象です。
それと、僕は新しい自然現象、自分の知らない生命をもっとつくりたいんだということを改めて思いました。そうしないと実際の生命には絶対に追いつかないですよね。今の生命の概念を内包化するような、もっと大きな生命の概念を構成したいと考えて、そいつのモデルをつくろうと思っています。

インタラクションをどのように捉えるか?

阿部 その大きな生命の概念とは、どういう作業から構成することが可能なのでしょうか?

池上 たとえば、映像のフレームレートは、毎秒30フレームあれば連続的に見え、映像として認識できますが、これが毎秒100万フレームあったとしたら、どういうふうに、その生命は考え出すのだろうか。あるいは、ニューラルネットワークは2ミリ秒ぐらいの間に発火して、秒速10から100メートルぐらいで伝達するのですが、これが光をベースにしたネットワークが構成されていたとしたら、光の脳はどのような記憶をつくったり、どのように対象が見えたりするのだろうか。そういったことを考えていて、つまり実際の生命が使っていないものを使って、生命を構成しようとしたとき、そこに現れるものは果たして何かということです。

阿部 たとえば1960年代ぐらいまでの映像技術だと毎秒30フレームで表現したり、配信することすら難しかったわけですが、今の技術では人間の知覚レベルをはるかに上回るフレームレートを実現可能です。これまでは、人類が必要とする補正的/補助的なものとして技術が生み出されてきたわけですが、いまでは補正だとか補助といった枠を飛び越え、それが我々の知覚や身体自体にフィードバックする可能性も検討できる状態になっている、ということですよね。

池上 それをもっと拡張して言うと、最近、自分は「人が好きじゃないのかもしれない」と思うようになってきました。アートは、人のためにつくるものなのだろうかと疑問が湧いてきたのです。人類がいなくなって、何万年も経過したとしても、そこに作品が存在していてもいいわけですよね。そういうスケールで考えたときに必要な技術もあるし、人間がいないからこそ、成立しなければいけない技術もあるのではないでしょうか。人のための技術というふうに考えるのが、僕はあまり好きじゃないのです。

阿部 利便性とは異なる視点から技術を考えるということですね。

池上 そうです。技術は人のためのものじゃなくて、それ自身をつくるためにも、どんどん生まれてくるものだと僕は思います。

阿部 このあたりについて、三上さんはいかがでしょうか?三上さんはかねてより、アート作品とは、その時代の環境や、社会、科学技術などの状況をダイレクトに反映する存在であり、それと同時に新しい形を得ていくのだということをおっしゃられていました。これはつまり、一般的なアートについての認識だと、絵や彫刻というフレームがあって、アーティストはその中のコンテンツを書き替えていくのが定式だと考えられていたわけですが、現在のアーティストというのは、技術の進展や、それに伴って起きる社会や身体の変容みたいなものを反映してフレーム自体をつくっていく、ということだと思います。

三上 「現代社会を表現する」という、現代美術の中でおのずと出てくる問題をメディアアートは常に抱えているなということで「反映する存在=鏡」という言い方をしたのですが、たしかにそういうことは考えています。
それに絡めて言うと、私は「技術の壁」というのが、大変ではありますが、意外に面白いと思っています。私の作品の場合、こういう作品をつくりたいと考えると、技術的な課題が必ず出てきます。そこで「ああ、やっぱりできないか」という結論になり、そこから3〜4段階ぐらい技術的なレベルを落としていくというつくり方をしています。
といっても、机上で調べただけでは諦めないようにしていて、いろいろな研究所や機関にリサーチしに行ったりしています。たとえば、1996年にキヤノンが運営していたキヤノン・アートラボというところで視線入力のシステムを使った作品を発表したことがあります。それは、鑑賞者が対象物を見た視点が可視化されて、三次元化された視線の軌跡がリアルタイムに表現されていく作品です。技術的にかなりハードルが高かったのですが、キヤノンをはじめ、さまざまなところから協力を得て、何とかかたちになりました。

池上 三上さんは天才的なところがあって、その感性で「こういう作品が面白いに違いない」と直感してからつくりますよね。今回、三上さんの作品を見て「ああ、これは絶対自分にはまねできない、考え方が違うんだな」と思いました。僕はそういう発想から物をつくらない。根本的に考え方が違うので、興味深いです。前にも言ったことがあるのですが、テオ・ヤンセンの風で動くロボットがありますよね。僕はそれがすごく好きなのですが、三上さんの作品は、それのデジタルバージョンみたいなイメージがあります。
アート作品をつくるためには、三上さんのように、やりたいことを実現するために技術を探す方法とは異なり、ある新しい技術が先にあって、それをもとにどんな構造やパターンをつくることができるのか、それを考える方法があると思います。僕は後者なんですよ。2006年に僕が渋谷さんと『filmachine』を制作したときは「Huron(ヒューロン)」という立体音響をつくりだす装置が、今回の場合は、1個のコンピューターで16個のカメラ入力を同時制御することが可能なボードが、その新しい技術に相当します。

阿部 三上さんは1980年代からずっと作品を発表されていますが、あの当時は観客の振る舞いをリアルタイムに処理することが技術的に困難だったにも関わらず、インタラクションを積極的に導入しようとしていたように思われます。たとえば、三上さんの作品に、半透明な素材でつくられた巨大なミサイルが明滅するというインスタレーションがあるのですが、観客のひとりの脈拍をセンサーに入力すると、そのデータに基づいて巨大な空間が全て同期するんですね。あの当時から、インタラクションを導入した作品群が今後、社会で受け入れられるようになるという予想のもとに、あのような作品群を発表されてきたのでしょうか?

三上 たしかにインタラクションという問題は、当時からかなり考えてはいました。その後、やりたいと考えていたことが、だんだん簡単にできるようになっていきましたね。簡単と言っても、あくまで「以前に比べて」ということです。今はインタラクティブアートをつくることは予算的にも技術的にもそんなに難しくなくなりましたね。いろいろなインターフェースやデバイスも市販で購入出来ます。90年代初頭のように研究所や大学の高価な機材にアクセスして金銭的にも困難な状況を打破してでしかつくれないという事はなくなりました。
少し余談になりますが、私はウィーンのとある画廊と契約をしています。そこのオーナーが私の初期のメディアアートではない、立体作品やインスタレーション作品をコレクションしていて、展示もやっていただいているのですが、そこのオーナーは、インタラクティブアートは「近付いてみたり、離れてみたりという観客の作品への導入部分の余白を殺す」と言っています。つまり「触ってください」とか「この中を歩いてください」とか、観客にある行為を強いること自体、その人が作品を見ようとする自由意思を剥奪していると考えているわけです。そういう作品鑑賞の入り口の問題は、メディアアート全体の問題として現実にはあると思いますが、私としては何か指示をする説明文を作品の前に置いたりはしませんし、作品空間に入った途端にインタラクションの巻き込まれていくという形で作品を作っています。

阿部 簡単につくれるようになったということは非常に重要なポイントだと思います。いま美術大学でもインタラクションデザインとか、メディアアートを学ぶ専攻が当たり前のように設置されていて、そこで学ぶ人が増えてきています。そういう背景もあって、初学者でも容易にインタラクティブアートを制作するための環境が整いつつあるわけですが、それが、むしろ、インタラクションのもたらすリアルタイムという概念を、あまりに簡単なものにしてしまっている側面は否めないと思います。
「リアルタイム」はひとつのように思われるかもしれませんが、多重性があります。それに関連して、今回の総合的なテーマである「監視社会と身体」が出てくるわけです。監視というのは多重に見られていて、どれがリアルタイムなのかということにも、常に微妙なズレがつきまとっている。それを、脳も含めた身体によって処理し、表現していくという問題にいま我々は直面し始めたのではないでしょうか。今回のおふたりの作品というのは、リアルタイムが本質的に持つ「ずれ」というか、ディレイドリアルタイムという問題を扱っています。池上さんの作品でいうと、多重性を同期させないで共存させるといったことに挑戦されています。

池上 それをインタラクションさせないというのが、僕のテーマです。アート作品の場合、インタラクションさせない方が面白いと思うんですよね。要するにうまく切れたり、離れたりすること、つまりカップリング/デカップリング、アタッチメント/リタッチメントが重要だという意味です。なにごともインタラクティブにさせると、鬱陶しい感じがするんですよ。何をやってもインタラクティブにならないようなシステムにすると、結構面白いと思います。

阿部 三上さんの作品も「蠢く壁面」に人が近づいていくと、すぐに多視点からキャプチャーされて、データベースに送られ、その後、観客に左右されないかたちで、エージェントが自律的に動いて、映像を構成し、スクリーンに投影しています。

池上 自律性をどうやってつくるかという問題は、僕にとって非常に重要なテーマなんです。僕がやっている複雑系とかカオスとかも、生命の持っている自律性を表すための理論なんですよ。このシステムも完全に自律的で、最初のスイッチを入れると動き出して、ときどきインタラクションして、その動きを変えるけれど、基本的には自律的に動いているだけのシステムなんですね。だから、場合によっては観客との間にインタラクションが生まれるかもしれないけれど、多くの場合、全部消えていってしまうわけですね。
昨日、evalaさんがこの作品を使ってやっていたライブパフォーマンスは、ある瞬間にパターンが大きく変わるから、彼がつくりだしたオーディオビジュアルだと感じられた方もいらっしゃるのではないかと思います。でも、実は違うんです。この作品は自分でパターンをつくって動いているんですね。結果としての共演という状況だけが生まれているんです。インタラクションをさせるための端子は、どこにも無いけれども、やっていくうちに何となくなじんできて、インタラクションできるときもある。こういったことが自律性のコアだと思います。だから「とにかく自律的なシステムをつくらないと、生命は分からない」というのが、僕のスタンスの重要な部分です。

阿部 三上さんは、常にインタラクションというものにこだわって作品をつくられていると思うんですけれども、コンピューターが自律性を獲得して、観客には関係なく動いていくというインタラクションの在り方には、どのような考えがあるのでしょうか?

三上 15年程前から、劇場型の作品をある意味では否定して作品をつくってきました。劇場でではなく、工場のように延々とプロセスをつくりだして、そのプロセス自体を見せることで、1秒ごとに異なっていくイメージやサウンドというものを提示してきたわけです。ただ「予め決めてつくったものを見せるのではない」という考え方は5年程前から無くなりました。劇場型とか工場型とかを分けて考える事自体がおかしいし、観客には関係なく自立して動いていくダイナミズムをインスタレーションとして提示して、その中に観客が入って変容する部分もあるというように、あまり形式には拘らずにインタラクションを表現していくようになってきたと思います。

今後の展望

阿部 それでは、そろそろ時間も差し迫ってまいりました。最後に一言ずついただければと思います。

池上 アート作品をつくるときに、みんなが当たり前だと思っていることには、結構不思議なことが多いと思います。
僕は大学で熱力学を教えているのですが、そのときに、1リットルと1リットルの水を足すと2リットルになるけれど、10℃と10℃の水を混ぜても20℃にならない、という話をします。みんなそれは当たり前だと思うでしょうが、なぜそうなるのか。物理はそこから出発するんです。だから、足すということ自体も実は疑うべき問題なんです。それは時間についても同じです。10秒の10分の1は1秒で、1秒の10分の1は0.1秒で、脳もそういうふうに認識していると思っているけれど、そうではないかもしれないじゃないですか。
そうしたことに気付かせてくれるようなアート作品があれば、僕は良い作品だと思っています。今回、非常に良い経験をさせてもらったので、今後も継続的につくっていって、MTMのシリーズの5番目ぐらいで、きちんと生命になればと思っています。

阿部 この作品は、様々な方向に発展可能な予感がしますね。

池上 そうですね。基幹プログラムはできたので、映像だけではなくて、いろいろなことに展開できます。このアイデアやシステムを使って、時間をテーマにした作品なども考えていきたいなと思っています。

阿部 三上さんからも、何か一言お願いします。

三上 今回の作品はYCAMでの展示が終わると、そのまま海外へ巡回するのですが、サーチアームも含め、作品全体をもっとバージョンアップしていけたらと考えています。

阿部 三上さんのこれまでの作品は、ずっと『分断された身体』というシリーズで、それぞれ視覚や聴覚、重力覚をピックアップして、何かインタラクションに投げ込んでみるということをやっていました。今回の作品はそのシリーズとは違う、新たなシリーズのスタートだということで良いのでしょうか?

三上 そうですね。これまで、インターフェースや人間の知覚と言っても、非常にテーマの範囲が大きいので、それを視覚だけとか聴覚だけという形で、バラバラに表現してきました。先ほど池上さんが「新しい自然」という話をされていましたが、そういうことにも近いかもしれません。いろいろ考えられると思います。

阿部 そういえば最初、「ホワイエに草原をつくろう」とおっしゃっていましたよね。

三上 タルコフスキーの『鏡』という映画の冒頭のシーンで、草原が風でざっーと揺れるシーンがあります。その草原を真似するというわけではないんですが、ホワイエを全部仮想の草原のようにしたインタラクティブ・インスタレーションを制作したいと思ったんです。それで、どの程度の費用がかかるかをざっと聞いてみたら「5億円はかかる」と言われて、そのアイデアは消えました。
最後に、今回コラボレーターとして参加してくれた平川くんやクワクボ(リョウタ)さんをはじめ、さまざまなサポートをしてくれた YCAM InterLabのスタッフの方々は、皆さんアーティストでもあり、その辺りが単なる技術者とのコラボレーションとは全く違うところです。今回、このようなアーティスト達のグループの中で制作できたので、発想や部品の組み立て方、意見のぶつかり合いなど、非常に面白かったです。この場を借りてお礼を申し上げます。

キュレーションの意図

阿部 おふたりともありがとうございました。ここで一旦、トークセッションは閉じさせていただいて、会場からご質問があれば受けたいと思います。

会場1(四方幸子氏) とても面白く聞かせていただきました。まず、展覧会の感想をいくつか申し上げた後、阿部さんにキュレーションについての質問をしたいと思います。
まず、やはりおふたりともシステムやルールのことを考えていて、それに対して動的因子、もしくは不確定因子としての人間が、どのように入っていくかという問題、そしてそれによって起こる現象に対して、興味を持たれていることが非常に明確に見えたと感じました。そこからフィードバックの問題や相互浸透性の問題、インタラクションの問題も出てきていて、これらの作品にはインタラクションとインタラクティブアートに関する、批評的なまなざしが含まれていると感じました。
あとは監視や身体性、データベース、記憶の問題もありましたが、そういった意味では現在における映像の状況がかなり変わってきている中で、おふたりとも映像を使って映像を新たに探索し、発見しているということも強く感じまして、たとえばハルーン・ファロッキや、ダン・グレアムの作品を思い出しました。あのように、整合的であったり、割と分かりやすいインタラクションやフィードバックではなくて、インタラクション自体がかく乱されてしまって、訳が分からない状況になっているということが、今回の作品の表現としてもよく表れていたし、映像やインタラクティブアートに対する批判/批評としても見ることができたと、自分なりには今のところ理解しています。
そこで阿部さんに質問なのですが、なぜ、三上さんと池上さんというこのおふたりなのか。この組み合わせは非常に面白いと思っているのですが、その意図や、きっかけを教えていただきたいと思います。

阿部 最初、当時三上さんがプロトタイプとして制作し、ストックホルムやベルリンで発表していた「蠢く壁面」から、壮大な空間を使った新しいシリーズを展開できないかということで、このプロジェクト全体は発想されました。そして、具体的に制作のスケジュールを決めると、いろいろな問題が顕在化してきます。どのような技術や装置を使うか――たとえば、ビデオカメラからの映像をどのように編集して、表示するか――といった話になり、そうした流れの中で三上さんの作品が内包する問題、つまり多視点からつくりだされる監視という問題が浮上してきたわけです。10年ぐらい前の「マルチメディア」というものは、マルチなものがメディアテクノロジーによって統合され、同一化される現実を表現しようとしていたと思います。しかし、今日では、むしろマルチなものを通して、マルチなまま表現される。だから、我々の感覚はどんどん分断されていって、マルチなものとして共存している。そういった知覚の在り方になってきているのではないかと考えています。そういったことがテーマになってきました。
本来は、三上さんと池上さんのコラボレーションという形で、もう1つ作品をつくれないかということで、検討をしていました。しかし、話を進めていくうちに、やはり池上さんはかなり独特なプロセスの進め方をされる方だということに改めて気づきまして、妙に同調して進めるよりは、池上さんにオリジナルの作品を制作していただき、それを関連展示として発表した方が、面白いプロジェクトになるだろうと思い、そのようにしました。結果として、展覧会のテーマも拡張されたと感じています。

会場1(四方幸子) それと、もう1点質問です。これらふたつの独立した作品に対して、逆にどのように関連が見いだせるのか。違いもあると思いますけれども、阿部さんのほうで関連について気付いたことがあれば、そのあたりも聞きたいと思います。

阿部 たしかに先にご指摘されたような関連もありますし、独立した作品である以上、差異もあります。ただ、キュレーターの最終的な視点まで言ってしまうと、それが重くなってしまう可能性もあるので、それは言わないでおきたいと思います。
差異や関連を踏まえたうえで、今回キュレーターとしては、アプローチの違いを意識しました。具体的に言うと、池上さんの作品には「美的な判断に基づいてこうするんだ」というのは、なるべく入れないようにしています。これがポイントで、明確なコントラストとして、三上さんの空間構成、あるいはアレンジの仕方と変えている部分です。科学的な視点と、芸術表現というものが交錯していくというのは簡単な命題のように思われるかもしれませんが、実はすごく大変なことだと改めて感じました。

サイエンス/アート

会場2(茂木健一郎氏) まずはおふたり、それからキュレーターの方、素晴らしい仕事をありがとうございます。せっかく池上さんが爆弾を投げてくれたので、それを拾いたいと思います。
僕は美術をずっと見てきた者として、三上さんと池上さんの作品を比べて、美術作品としての「つくりこみ」には、ものすごい差があって、やっぱり三上さんの作品は素晴らしいと思いました。メディアアートには、理屈しかなくて、良くもない作品がたくさんあるわけですが、三上さんの作品は理屈も素晴らしかったし、美的体験のアートとしても素晴らしかった。もちろん、国際的な水準にも達していたと思います。
でも、池上さんが言ったこと、つまり「そういう素晴らしさは、どうでもいい世界もあるんじゃないか」という考えは非常に重要なことだと思うのです。俺ははっきり言って、池上さんの作品がこういうところに置かれていることに、すごくムカついているんです。さっき、すごく微妙な言い方をされていましたけれど、「これは美術作品として扱っていませんよ」と言われているようにも取れるわけですよ。でも、それはそれでいいんです。だって「つくりこみ」の仕方が全然違うんだから。一緒にしろとは言っていません。 ただ、池上さんが言っていたのは、もうちょっと深い話で、要するにサイエンスにおける美しさの基準というのは、美術とは全く違うんだけれど、たしかに存在するんですよ。それは、ほとんど世の中の人に理解されていないんです。というか、理解するつもりもないと思うんです。たとえば、アインシュタインが相対性理論の論文を書いたとき、わざわざオークションにかけるために、もう一度、相対性理論の論文を手書きで書いてくれと言われて、アインシュタインがチャリティーのために書いているわけですが、アインシュタインの論文が手書きで書かれていないと納得しないような世の中があるわけです。
俺が池上さんに言いたいのは「こういうことをやっていていいのか」ということです。結局「おまえの作品はアートじゃねえよ」と言われて、際物扱いされてしまっている。たとえば、ゲーデルの不完全性定理なんて、ひとつのアートじゃないですか。科学における「すごさ」は、普通の人には分からないかもしれないけれど、別に分からなくたっていいんですよ。
リベットの意識の時間モデルだって、リベットのすごさは全然、伝わっていないんですよ。でも、リベットのあのすごさを本当に伝えようとしたら、結局、ゲーデルの不完全性定理みたいに形式化して、何かを証明するとか、そういうことをやるしかないんじゃないですか? 池上さんが投げた爆弾って、すごく良く分かるんだけど、『MTM』をつくることで、その爆弾の起爆装置にできるんですか?要するに、ゲーデルの不完全性定理の証明みたいなものを、従来の理論的な枠組みの中でやる以上のことを、このような路線で、本当に達成できるんでしょうか?そのことを、池上さんに聞きたいと思います。

池上 素晴らしい意見だと思います。僕が思ったのは、例えば時間のことを問題にしたときに、どういう時間が流れているのかというのを、理論上あるいは意識の上では扱いえないということです。必要な時間の研究のためには、オープンなシステムに放り出すことが大事なんです。オープンシステムの中で、例えば「散逸構造が生まれる」と言っても、そうした外の世界と相互作用できる、それを前提とした理論しかできないわけですよ。相互作用できるから、式の形でたとえばプラスXと書けるんだけど、実際にはどういうものがそこにあるかわからないので、相互作用の式は書けない。書けないのが本当のオープンシステムです。本当のオープンシステムの中で出来上がる構造を見るためには、やっぱりつくってみて、本当の場に投げ出してみないと分からないんです。
たとえば、日本にはロボット研究がいっぱいあります。でも、今のようなロボットのつくりかたをしていても、たとえばアーム制御に関する理論はつくれるかもしれないけれど、僕が最初からやりたかった、その結果どういう知覚があるのか、知覚の中に流れる時間とは何か、そういったことに関しては、分かってこないと思うのです。だから、もうちょっとラジカルな時間や空間の使い方が必要で、そのためには、ここでやったような方法も面白いんじゃないかと、僕は思っています。
あと、サイエンスとアートは違うのかという問題は、つねに議論になってきました。僕は、究極的には同じだと思っています。問題をつくるのが科学者で、表現の仕方をつくっていくのがアーティストだ、という分け方は仕方かもしれないけど、すごい嫌なんです。「おまえは科学者なんだから、これをして」「おまえはアーティストなんだから、これをして」とかいうラベルではなくて、個人で見てほしい。科学的な考え方と、アーティスティックな考え方があるだけで、どういう形で個人の中に存在しているかということだけを問題にしたいですね。「おまえはサイエンスだから、アートじゃない。論文を書け」とか、そういう意見が結構多くて、それと戦っているのですが、ともかく、個人として、サイエンスでもあり、アートでもあるような頭の使い方として考えたいと思っています。

会場2(茂木健一郎氏) ひとつだけ補足すると、たとえばフランシス・ベーコンがやったことって、すごいことじゃないですか。だけど、ベーコンはロジカルな意味でそんなに賢かったのかというと、そういうことではなくて、一種の野生動物として動いてしまった。要するにアーティストというのは、野生動物なんです。三上さんもそうです。ピューマみたいなものですよ。これは素晴らしいことです。
でも、サイエンティストというのは、「何でこの野生動物がすごいのか」ということを説明しなくはいけない。そこがすごく難しいわけです。いま、池上さん自身が猛獣使いであると同時に、猛獣であろうとしているわけですよ。そこがすごく難しいところだと思います。

池上 それは全くそうだと思いますよ。語るということと、記述するということと、つくるということは、それぞれ別物です。その難しいことを提案したのが複雑系の科学であって、構成することで、ものの分かれ方が立ち上がってくるという立場なんです。たとえば、ある式を書いて「これはコウモリの式です」と言っても、それはコウモリそのものではないですよね。これはすごい大事なことですよ。つくって、それを動かすということと、それを記述することとの差を、どのぐらい変えられるものなのか、ちゃんと考えなくちゃいけなかった。それが複雑系の科学なんです。

阿部 このまま話を続けると、30時間あっても足りなくなってしまいそうなので、この辺りで締めたいと思うのですが、非常に重要な話が出ていたと思います。キュレーターの立場から言うと、科学とアートに優劣をつけているわけではなく、完全に別のアプローチとして並列させて扱っているということは改めて言っておきたいと思います。
ふたつの作品の間に差があるとすれば、三上さんの作品は、相当前からプロトタイプもあり、実際の表現としては成熟した作品というか、大人の作品になっているわけです。池上さんの作品が、それと同等に見えないのは当然で、これはある意味実験であって、この先どうなっていくのかは未知数です。そういう大人と子どもの違いみたいな、プロセスの段階の違いが明らかにあるわけで、それを同じ美的なレベル、芸術という形で比較するのは、なかなか難しいという点はあると思います。 きょうは三上さん、池上さん、どうもありがとうございました。